数理人文学は可能か?

文化進化の超膨大なパラメータスペースとして存在している数学というものを想定すると、それは別に身体性に制限される必要はないし、身体や個人とは別個に存在していると考えるほうが自然。ただ、我々にとって、意味のあるものはその中の限られた一部であって、そこへのアクセスには、様々な文房具や電子ツールも含んだ文化と身体が重大な制限を加える。

Nov 2, 2021 にZoomで行われた久保田晃弘さん(多摩美術大学)による数理人文学セミナーは面白かった(Youtube で公開中)。視聴者のみなさんのバックグラウンドが文系だろうと理系だろうと楽しめる、内容は高度だったが、私にはかなり面白かった。

久保田さんのトークの後のDiscussionで言い残したことがあったのでブログに書き留めておく。(私が動画中にコメントした文系におけるRegistered Reportについての可能性は他のエントリを参照してください)

久保田さんいわく:”数学の定理という、… 形式による自律的な展開性がある…数学の全てを人間…の認知活動によって説明…できない。しかしその基本となる形式…として導入されるアイデアや仮定(公理)には、身体化された(共通の)経験が深く関わっている … 数学は形式的である以前に認知的… 決して超越的かつ唯一のものではない。… 形式と意味内容が不可分のものとなる”

確かにそうなんだけど、ここでは「現存して残っている」タイプの数学しか考えられてない。そのため、どうも私としては違和感が残る。

まず、個々人が生み出すたぐいのアイデアは、単に論理的に破綻していたり、現状に合わないという意味で間違っていることが結構ある。そしてそのようなアイデアは、蓄積されない。それは、その個人の身体(や広い意味での経験)には論理的に整合てきなのかもしれないが。一方で、数学の証明はそういう意味ではすごい。一回証明されれば役にたつかは別として、蓄積はされやすい。

ただし、数学の歴史の中には、おそらく、間違っていた「予想」とか、数学者の直観は数多くあったはず。ワイルズが証明したから今は「フェルマーの最終定理」と呼ばれているが、あれも、間違いだったとわかれば、「フェルマーの最終予想」に格下げされることだろう。数学の予想の中には、後で間違ってた、ってことが証明されることだって有ったはず。ABC予想とその望月さんによる証明なんて、これからどうなるんだろう? (私としては、たとえ間違ってても、別に良いと思う。加藤文元さんの本は超面白くて一気に読んでしまった)

間違っていたり、他の人の役に立たないアイデアは継承されず、淘汰される。そういう考えを形式化したのが Cultural Evolution という考え。

Cultural Evolution は、Evolution が4つのレベルで起こっているという Eva Jablonka の説とも整合性がいく概念。(この本は結構重要だから誰か日本語に訳せばいいのにと思う。ただ、長いので、短く訳すと良いかと思う)

遺伝子、エピゲノム、個人の学習、文化進化。この4つのレベルで進化が起こる。そして、それぞれのレベルで、パラメータとして取りうる組み合わせは、半端なく多い。文化進化のレベルで言えば、その取りうるパラメータスペースの中で、ある程度の整合性があったり、役に立ったりといったものだけが次世代に継がれていく。ここで生き残ったものは、あるパラメータスペースの中では矛盾がない。(だが、公理系が違うならお互い矛盾するというのがゲーデルの不完全性定理。)

こう考えると、歴史上の誰かの身体性から始まった数学は、全く身体から離れた文化のレベルでも進化をしてきたと考えられる。紙とかも「身体性」に含まないと身体性の議論は成り立たない。(身体性についてはまた今度書くかも)。ただし、各世代で、その世代の誰かが数学を学んで、その人の身体とその人が持っている道具に制限されつつも、理解できる形で書かれていないとその数学は継承されない。

私の考えをまとめる。文化進化の超膨大なパラメータスペースとして存在している数学というものを想定すると、それは別に身体性に制限される必要はないし、身体や個人とは別個に存在していると考えるほうが自然。ただ、我々にとって、意味のあるものはその中の限られた一部であって、そこへのアクセスには、様々な文房具や電子ツールも含んだ文化と身体が重大な制限を加える。

私の考えは、客観主義・主観主義・経験基盤主義とも違うと思う。ある意味、それぞれと同意するところもあるが、それぞれと大きく異るところもある。

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