How to be an efficient manager in a remote collaborative project?

Because of the nature of my research, remote collaborations have become essential. Here are some notes on what I found useful on how to better manage these remote projects. There are many more, but I list only three points here, which seem to work in my team in my area of the research. Hope this may be useful to some people!

Table of contents

  1. Toyota Matrix & Trello Board
  2. Attach the estimated date to finish on every item on the ToDo list
  3. Try to make each goal concrete, following the MAC principle

1) Toyota Matrix & Trello Board

In our lab, we have been implementing a method, called the “Toyota matrix”. It consists 4 regions, each of which lists various items related to the project. “Todo”, “Next”, “Problems” and “Awesome”. There are lots of similar techniques, called in different names, like WOOP etc.

As a Toyota matrix, we have used a whiteboard and Google Doc, which works well. Recently, we migrated into Trello, which is better in some aspects. One advantage of Trello is that the owner of the board can move items in “ToDo” into “Done”, which the team can review later.

The most important among 4 regions for me is “Awesome“. Share the “Awesome” goal among the team is quite important. The video from Spotify is inspiring. https://vimeo.com/94950270

If the team doesn’t align with the Awesome goals, collaboration can collapses.

Next important is “Problems“. This can be a difficult component of the matrix to fill if the team consists of all optimists. When we have realists / pessimists, they can come up with all sorts of potential failures. This is very useful. According to the science of the planning, we improve the success rate of the project if we are aware of problems. As I myself is optimistic, these negative comments are useful to keep. If they turn out not big problems, that’s also fine. Explicit listing of these potential problems are also good for pessimists. If they keep on thinking and ruminating these concerns, that can be harmful for the progress. I have seen many cases where these concerns are irrelevant in the end.

In our team, we use “Todo” to list goals and projects that the owner of the board plans to complete soon. We usually meet once a week or two weeks. So, anything that we plan to do before the next meeting comes under Todo.

Anything that won’t finish before the next meeting will go into “Next” area.

So, that’s the first step.

2) Attach the estimated date to finish on every item on the ToDo list

Next thing, which I recently found super important, is to estimate a date of completion for each ToDo item.

It’s known that >40% of items on ToDo list is never finished, if it doesn’t have a date.

There are several problems with the ToDo items without dates.

a) We can’t agree on the priority of the items.

b) We can’t understand each other what is causing the delay of each step. (Or, sources of the under- and over- estimation of these delay).

Having estimated dates of completion makes these issues manageable.

I find it’s better to use a term “estimated dates”. If we call them “deadlines”, it puts unnecessary pressure to the team members.

With these estimates, it becomes clear that almost everyone has significant biases. The biases may be due to perfectionism, planning fallacy, etc.

It seems many struggles come from poor planning of goals. We can improve the quality of goals by making it more measurable and actionable.

3) Try to make each goal concrete, following the MAC principle

M – Measurable

A – Actionable

C – Competent

I’ll skip the C part, for now.

I found that abstract goals, such as “Understand LME”, are not suited to put in ToDo. (Although, these abstract goals can be very effective and important in Awesome).

The problem of the abstract goals is that the team cannot assess whether we achieved them or not. It is better to make each item “measurable”. Compared to “understand LME”, “Read Chapter on LME” is better. “Apply LME to analyse the data” is even better.

Actionability follows a similar principle. If the goals are not something that we can do with concrete actions, it’s hard to see if we are doing something.

Once you get here, breaking down the items further, so that the owner of the board can achieve 4-5 seems to work well. Having many achievable goals makes achieving these feels like a game!

数理人文学は可能か?

文化進化の超膨大なパラメータスペースとして存在している数学というものを想定すると、それは別に身体性に制限される必要はないし、身体や個人とは別個に存在していると考えるほうが自然。ただ、我々にとって、意味のあるものはその中の限られた一部であって、そこへのアクセスには、様々な文房具や電子ツールも含んだ文化と身体が重大な制限を加える。

Nov 2, 2021 にZoomで行われた久保田晃弘さん(多摩美術大学)による数理人文学セミナーは面白かった(Youtube で公開中)。視聴者のみなさんのバックグラウンドが文系だろうと理系だろうと楽しめる、内容は高度だったが、私にはかなり面白かった。

久保田さんのトークの後のDiscussionで言い残したことがあったのでブログに書き留めておく。(私が動画中にコメントした文系におけるRegistered Reportについての可能性は他のエントリを参照してください)

久保田さんいわく:”数学の定理という、… 形式による自律的な展開性がある…数学の全てを人間…の認知活動によって説明…できない。しかしその基本となる形式…として導入されるアイデアや仮定(公理)には、身体化された(共通の)経験が深く関わっている … 数学は形式的である以前に認知的… 決して超越的かつ唯一のものではない。… 形式と意味内容が不可分のものとなる”

確かにそうなんだけど、ここでは「現存して残っている」タイプの数学しか考えられてない。そのため、どうも私としては違和感が残る。

まず、個々人が生み出すたぐいのアイデアは、単に論理的に破綻していたり、現状に合わないという意味で間違っていることが結構ある。そしてそのようなアイデアは、蓄積されない。それは、その個人の身体(や広い意味での経験)には論理的に整合てきなのかもしれないが。一方で、数学の証明はそういう意味ではすごい。一回証明されれば役にたつかは別として、蓄積はされやすい。

ただし、数学の歴史の中には、おそらく、間違っていた「予想」とか、数学者の直観は数多くあったはず。ワイルズが証明したから今は「フェルマーの最終定理」と呼ばれているが、あれも、間違いだったとわかれば、「フェルマーの最終予想」に格下げされることだろう。数学の予想の中には、後で間違ってた、ってことが証明されることだって有ったはず。ABC予想とその望月さんによる証明なんて、これからどうなるんだろう? (私としては、たとえ間違ってても、別に良いと思う。加藤文元さんの本は超面白くて一気に読んでしまった)

間違っていたり、他の人の役に立たないアイデアは継承されず、淘汰される。そういう考えを形式化したのが Cultural Evolution という考え。

Cultural Evolution は、Evolution が4つのレベルで起こっているという Eva Jablonka の説とも整合性がいく概念。(この本は結構重要だから誰か日本語に訳せばいいのにと思う。ただ、長いので、短く訳すと良いかと思う)

遺伝子、エピゲノム、個人の学習、文化進化。この4つのレベルで進化が起こる。そして、それぞれのレベルで、パラメータとして取りうる組み合わせは、半端なく多い。文化進化のレベルで言えば、その取りうるパラメータスペースの中で、ある程度の整合性があったり、役に立ったりといったものだけが次世代に継がれていく。ここで生き残ったものは、あるパラメータスペースの中では矛盾がない。(だが、公理系が違うならお互い矛盾するというのがゲーデルの不完全性定理。)

こう考えると、歴史上の誰かの身体性から始まった数学は、全く身体から離れた文化のレベルでも進化をしてきたと考えられる。紙とかも「身体性」に含まないと身体性の議論は成り立たない。(身体性についてはまた今度書くかも)。ただし、各世代で、その世代の誰かが数学を学んで、その人の身体とその人が持っている道具に制限されつつも、理解できる形で書かれていないとその数学は継承されない。

私の考えをまとめる。文化進化の超膨大なパラメータスペースとして存在している数学というものを想定すると、それは別に身体性に制限される必要はないし、身体や個人とは別個に存在していると考えるほうが自然。ただ、我々にとって、意味のあるものはその中の限られた一部であって、そこへのアクセスには、様々な文房具や電子ツールも含んだ文化と身体が重大な制限を加える。

私の考えは、客観主義・主観主義・経験基盤主義とも違うと思う。ある意味、それぞれと同意するところもあるが、それぞれと大きく異るところもある。

現状維持バイアスは諸悪の根源か?

現状維持バイアスは認知バイアスの1つ。今までやってきたことと、新しいこと。どっちをとるかという選択に迫られると、どちらも同じ確率で良い悪いの結果がえられるという状況だとしても、人は今までやってきたことを選んでしまいがち。

私自身は、おそらく他の人と比べると、現状維持バイアスがもともと低いのではないかと思う。前世は破壊神だったのかもしれない。

科学者はみんな新しいことやるはずだから、現状維持バイアスは低いはず。と思うかもしれないが、実際はどうか? 私の経験では、科学者は一般に、ある特定の分野、特に自分が専門とする分野に関しては、現状維持バイアスは少ない、かもしれないという印象がある。しかし、一歩自分のcomfort zone を出た途端、ゴリゴリの現状維持バイアスの権化みたいな人は多い。全般として、現状維持バイアスの度合いは、おそらく、他の職業の人と変わらないのではないか?

現状維持バイアスは、長い間の狩猟採集民時代に脳に刻み込まれたのだろう。他の認知バイアスも多くがそうだと考えられている。現代の人類学では、~200万年から1万年前という長い期間、人類は似たような生活を送っていたと考えられている。そんだけ時間があれば、狩猟採集民としての環境に合うような人が生き残ってきたはず。

狩猟採集民だった時は、新しいこと vs 現状維持という選択を迫られたら、多く場合、現状維持の方が有効だったんだろう。フグとか毒キノコ食べたりしたら死ぬし。新しく入ってきた人が「これ良いよ」って言ったからって「うちにはうちのやり方がある!」ってのが有効だったんだろう。

ただ、現状維持バイアスは現代、特に最近では破綻している。個人、家庭、集団、組織、それ以上、それぞれのレベルでの問題の大きな原因の一つはこれだと思う。(逆に解決の仕方もわかっているから、未来は明るい)。

現状維持バイアスが、現代人に全くフィットしない理由は少なくとも3つ。

第一に、科学のおかげで、さまざまなアイデアが replication 可能な形で、効果量も測定できるレベルですでに試されていること。registered report, meta analysis, structured review などの比較的新しいやり方のおかげで、この動きはますます加速している。新しいやり方が上手くことがある程度、統計的に保証されていることが多い。Daigo氏や鈴木祐氏の本はそういう結論をまとめてくれている。

第二に、新しいことを試して失敗する時のコストは、狩猟採集民の時に比べて激減していること。大概の新しいことはトライしても死なない。

第三に、めちゃくちゃ多くの新しい手法、しかもそのAlternativesを簡単に知れる。情報の溢れ具合は半端ない。

なので、今の問題点・改善可能なポイントを洗い出し、現状維持バイアスに反抗して新しいことを試し、良かったら新しい方法を残す、というサイクルを回すと、色んなレベルで問題が解決・改善すると思う。なんて明るい未来!?

この方法で、最近は私自身は少なくとも、どんどん改善していけている感じがしている。目標は、毎日昨日の自分を恥ずかしく思えるようにすること(=成長)。

こういう思想は、どうやって家族・私のグループ・私の所属するグループを含む組織に共有してきたい。それができるかどうかが今後の課題。

8月の池上高志さん・石黒浩さんとの意識対談と自然変換について考えた

8月に突然、2回Youtubeライブで東大の池上高志さん https://youtu.be/KkQqwiFW8p4 と、阪大・ATRの石黒浩 さんhttps://youtu.be/Y6Pyns3O1vg と対談をさせてもらう機会に恵まれた。あれから2ヶ月ちょっとで両方とも500回以上再生されている。

お二人とは前にも話したことあったが、今回は、私が圏論の米田の補題の世界観をもって話したから話が深まった気がする。(米田ペーパー日本語版英語版

対談の前に、池上さんと石黒さんの共著「人間と機械のあいだ」を読んで準備したのも良かったのだろう。本を読んでいたときにとっていたノートを今見返してみると、池上さんの人工生命とか、石黒さんのロボットとか、普段相手にしている「意識と脳の関係性」というテーマから離れているからこそ見えてくる「共通の構造」的なものに反応していることに気付いた。

この違うものの間の共通性、というのは圏論でいう「自然変換 / natural transformation」に通じるものがある。よく、圏論を振りかざしている人はカッコつけてるだけで中身がない、と言うことをいう人がいる。だが、この自然変換・natural transformation という概念こそは、圏論によってはじめてちゃんと定式化されたものだ。圏論を学び始めた当初、西郷さんに繰り返し、「自然変換が大事」と言われ続けたが、腑に落ちるまでは時間がかかった。それほど、私にとって新しい概念だったのだと思う。

この自然変換的な視点を持ったおかげで、分野横断型・異分野協働・異分野融合の研究の必要性・利点を、おぼろげながら形式化できそうな気がしている。(この辺は11月18日にArayaのHiroHamadaさんとやる意識ラジオで話すことになると思う。)

自然変換を理解することで、「共通構造」を見つけるセンスが磨かれるのでは無いか? ただし、後で説明するように、アナロジー・メタファーを感じるセンスは、ほとんどすべての人がもとから持っている。

「人工生命A とロボットR と人間H が X という共通構造を持つ」とはどういうことか? たとえば、Xを視覚、としてみる。Aのなかでの視覚の決まり、プロパティ、機能などなどをまとめ上げて作り上げる Aの視覚の圏を想定する。「圏(けん)」についてのイントロは色んな本か、私が西郷さんと書いたものを参照してください(後者は意識研究者向けに書いたのでやさしいはず)。今はグラフみたいなものと考えてもらっていいです。そしてそれがRの視覚カテゴリやHの視覚カテゴリに構造を壊すことなく写せるとしよう。

これのお互いの構造を壊すことなく写せる、というのが、A,R,Hの視覚の間になんらかの「関手(かんしゅ), functor」がある、という状況だ。(関手についても西郷さんと書いたものを参照)。以下はFig3 from Tsuchiha & Saigo 2021

そしてそういう異なった関手の間に共通する法則性というか、翻訳の決まり、みたいなメタなレベルでの共通構造がある時、それが 「視覚」というレベルにおける「自然変換」がある、という状況だ。以下はFig5 from Tsuchiha & Saigo 2021

ただし、ここまでだけだと、なんだ、アナロジー・メタファーとどう違うんだ?という話になる。圏論とかいってカッコつけんな、的な。

しかし、ここからが最初、私の腑に落ちなかった話しになってくる。

自然変換は、ただのアナロジー・メタファーではない。「自然」だとみなせるのはどういうとき、というのがきっちり数学的に定義されている。関手が移した先の圏の間における関係性(=arrow, 射)の集合としてCoherentになっていなければならない。tA, tB, …. というのが上のFig 5における射の集合、自然変換になっている。この縛りがキツイ。きついがガチガチというわけではない。というのも、もともとの圏における関係性として本当にA,R,Hが「自然」と似ているんであれば、そこは当然満たされるべき条件だからだ。

そして、圏論のすごいところは、圏、関手、自然変換とメタレベルが上がりつづけるように思えるが、自然変換のレベルで一回、圏における射の集合というレベルに話が落ち着くところだ。これは味わい深い。

我々の論文では、自然変換が成り立っている可能性が高い例として、視野のどこにも写せるような共通の構造を挙げている。右視野だろうと、左視野だろうと、中心窩(Fovea)だろうと、周辺視野だろうと、写せるそういう構造。移した後にローカルな関係性が保たれるような辻褄があうような「自然な関係性」。

で、ここまで考え抜くと、そんなに簡単にA,R,Hの間に自然変換は見つからないだろうということがわかる。

ロボット・人工生命・人間の違いに目を向けるのは簡単だ。何が同じか、同じものを作るにはどうしたらいいか、を考えるのは難しい。

Register report について:文系学問で registered report するのは無理なのか?

うちのラボでは、ここ数年、できる限りの実験系論文・データ解析系論文をregistered report 方式でPublishすることにしている。現時点(2021年11月)で、すでにPublishされたのは1本。Stage 1 acceptance が2本、Stage 1 のunder review が3本。準備ができつつあるのが2本くらい。

Registered report を何本かやってみて思うことは色々ある。まず、理屈や現時点でわかっていることを総決算して新たな予言をたてて、それを検証するっていうこの枠組は、本当の科学の姿だよなーといつも思う。

殆どの科学者は、仮説があって実験を始める。が、出てきた結果に合うように、最初の仮説を曲げて平気な顔して論文書く人がいる。(そういう人はPhD剥奪したらどうか?)。しかも、あたかもその曲げた仮説が最初からの仮説だったかのように振る舞って。

こういう態度の根本には、他人に「間違った仮説を立てた科学者」というラベルを貼られることに対しての恐怖感があるのではないかと思う。なんで間違ったこと言うのが嫌なのかが私には100%理解できない。間違った仮説が間違っていたということがわかることがProgressじゃん。

これに関してはRegistered Reportよりも大分前のレベルのPreprintでも思うことがある。共著者の中には、Preprintの中に、間違いが含まれていた場合、それが世界に広まってしまったらどうしよう、と心配する人がいる。大丈夫、あなたの些細な間違いなんて誰も気にしない。

というかそういうことを気にする精神構造、そういう精神構造を持つ科学者を作り上げた世界の構造が問題だ。そこまで行くと、この問題は理系の科学者だけにあてはまる問題じゃないと常々思う。日本だけの問題でもない。これは「間違えたらやばい」という認知バイアスの問題だろう。

で、題名にもある通り、文系の学者もRegistered Reportすればいいという発想にたどり着く。別に、検証できない予想とか予測だって、フェルマーの予想みたいに、価値がある予想だったらかなり世界が変わると思う。今の世界、うまい具合に仮説たてれば、たくさんの文系の学問における仮説は、低コストで検証できると思う。

くだらない、面白くない予測・予想はしてもしょうがない。そういうのを連発する人は、検証されて、無視されたらいい。そのうち、Google Scholarの新機能として、過去のRegistered Reportのインパクトとかが簡単に検索できるようになるだろう。そうすると、間違った仮説の中に、価値があるものとないものがクリアになるのでは? 他の科学者をインスパイアする予想がたてられるなら、たとえそれが間違えてても、検証できなくても、超長期的には価値がみとめられると思う。

「文系の学問でRegRepやれると信じるなんて馬鹿じゃない?」と思われる人もいるかもしれない。確かに、従来は「一回性の出来事」「個人の感性・主観」を相手にする芸術とか文系の学問においては、普通の理系や医薬系がやるような「統計的な」科学手法にはのらないかもしれない。でも、私ら、意識の科学やってますし。。。今やビッグデータ活用とかすれば、相当なレベルで一回性の科学を追求できそうな気がしている。

この前の論文で出した intersubjective agreement という概念はそれに向けての一歩になるかなと思っている。

Chuyin, Z., Koh, Z., Gallagher, R., Nishimoto, S., & Tsuchiya, N. (2021, October 7). What can we experience and report on a rapidly presented image? Intersubjective measures of specificity of freely reported contents of consciousness. https://doi.org/10.31234/osf.io/d2s38

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